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上州をゆく・連載(バックナンバー)

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◆上州をゆく◆第104話

「「きびしこの国」で輝いた郷土歌人 ○生方たつゑ【沼田市】

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 日本を代表する歌人であり、沼田市名誉市民第一号である生方たつゑは、三重・伊勢の出身である。沼田の古くからの薬種商の生方家に嫁いだのは、22歳のとき。夫は、旧沼田町長や県議、初代・国家公安委員を務めた生方誠(せい)である。

 

 環境の激変、旧家で夫の両親、弟妹一緒の大家族――嫁としての仕事、重圧がのしかかる。息苦しさに悩む日々の中、短歌を学んだ。「心の支えが欲しかった」からだという。初の歌集「山花集」を31歳で出版。厳しい沼田の自然、峻烈な人生を歌として紡いでいった。女性のための歌誌「女人短歌」の創刊に参加、また週刊文春、毎日新聞などの短歌欄の選者としても活躍した。

 

ここでたつゑの生涯をたどれる
▲ここでたつゑの生涯をたどれる

 

               冬やまの 痩せたる襞(ひだ)に おきわたす

                          寝雪のひかり きびしこの国

 

               しろたえの 雪野の上に ほのかなる

                          光うごきて 夕しづまりぬ

 

 54歳のとき、「白い風の中で」で読売文学賞受賞。短歌を近代詩の域に進めたと激賞された。76歳では、「野分のやうに」で短歌界最高の栄誉・迢空(ちょうくう)賞に輝いた。沼田市上之町にある生方記念文庫は、長女の美智子氏が開設し、たつゑの意思により、1993年沼田市に寄贈された。中には、たつゑの著書や生方家が伝えてきた和漢・洋書、交流があった「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子の書簡も並ぶ。

 

生方家に嫁ぎ、短歌と出会った
▲生方家に嫁ぎ、短歌と出会った

 

               母の忌も 杳(くら)くなりしか ふるさとの
                          魚の干物を 焼くゆふまぐれ

 

 伊勢の実家から海のものがたくさん届いたと、美智子氏は述懐していたそうである。海のない内陸の地に嫁いだが、やはり故郷の海は忘れ難かったに違いない。「海のもの」を食卓に並べ、故郷を懐かしんでいたのだろうか。私も海の町の出身。山懐に抱かれ、自然豊かな群馬の地で生活出来ることは幸せである。しかし碧く陽光に輝く海、鉛色の荒れた海を、たまに夢見ることがある。


-メモ-

●生方たつゑ
三重県宇治山田町(現伊勢市)生まれ。日本女子大卒業後、恩師の紹介で生方誠と結婚。アララギ派の今井邦子に師事し、たびたび上京して指導を受けていたという。生涯で詠んだ歌は8000首以上。沼田女子高などの校歌も作詞した。

●生方家
沼田藩の薬種御用達を務めた商家であった。沼田公園に移築された旧住宅は、東日本で最も古い町屋造りであることから、重要文化財に指定されている。

●生方誠
アメリカ留学中、演劇や人形劇に熱中し、芸術に理解があった。本人も絵画を多く残している。

●迢空賞
歌人で民俗学者の釈迢空に因んで設けられた。1967年制定。俳句の同様の賞に、蛇笏賞がある。

生方記念文庫

【アクセス】
JR上越線「沼田」下車。東へ徒歩30分。

【住所】
沼田市上之町199-1

【周辺マップ】

 

旧生方家住宅(沼田公園内)』

【アクセス】
JR上越線「沼田」下車。北へ徒歩20分。

【住所】
沼田市西倉内町594

【周辺マップ】

 

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◆上州をゆく◆第103話

「人類史上に一際輝く功績 ○富岡製糸場②【富岡市】

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 富岡製糸場が国宝に指定されたのは、世界遺産登録より遅い2014年12月。そのニュースに、私は不満な思いを抱いた。この国は、自国の宝を外国に教えてもらわなければ分からない。ノーベル賞受賞者が出ると、慌てて文化勲章を授与する「失態」を繰り返しているが、それと同じだと思ったからだ。

 

 本物を見る目がない日本では、遺産の保護は慧眼を持った個人や民間の努力に委ねられることが多い。殖産興業政策の先頭を走った富岡製糸場だったが、財政負担が重く民間への売却が検討された。しかし応募はなく、閉鎖の方針が出された。それに真っ向から反対し、存続を国に進言したのが群馬県初代県令(知事)楫取素彦であった。

 

国宝・東繭倉庫。レンガは甘楽町製
▲国宝・東繭倉庫。レンガは甘楽町製

 

 1939年、片倉工業(当時は片倉製糸紡績)が製糸場を傘下に収めた。「この由緒ある工場を永遠に存置せしむるため、外に委任すべきところなし」。譲り受けるに際し、片倉工業は決意したという。製糸で日本の戦後復興を支えた片倉工業であったが、生糸の需要減少、産業構造の変化には耐えられなかった。1987年、遂に操業停止。

 

 「売らない、貸さない、壊さない」。片倉工業はこの信念の下、18年間建物を守り抜いた。維持には、年間1億円もかかったという。2005年、富岡市に無償譲渡。富岡市は、世界遺産登録を目指す。登録には、「人類史への貢献」という物語が不可欠だったという。評価されたのは、高価な絹の量産化と大衆化。王族や貴族など特権階級が独占していた絹を、庶民に身近なものにした。米国では、富岡の絹のストッキングが女性に大人気だったそうだ。

 

見学者を迎えるお富ちゃんも大忙し
▲見学者を迎えるお富ちゃんも大忙し

 

 我々庶民とは縁遠い、何か高尚なものに価値があると思いがちだが、それは誤り。生活に密着し、人々に幸福をもたらすものこそ世界遺産に相応しい。今、製糸場は観光客でいっぱい。お富ちゃんも大忙しだ。ここは、豪華な建物や風光明媚を楽しむ場所ではない。人類の英知と努力、苦闘を学ぶ場であることを忘れないように。

 


-メモ-

●国宝に指定
繭から糸を取る繰糸場、繭を乾燥・貯蔵した東西繭倉庫が指定された。

●世界遺産
ダムに沈むエジプトのアブ・シンベル宮殿や水害に遭ったイタリア・ベニス救済の運動から発展し、人類の遺産を守ろうという条約が1972年成立。文化遺産、自然遺産、複合遺産の3分類がある。

●片倉工業
1873年、片倉市助が長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)で座繰(ざぐり)製糸開始を嚆矢とする。1994年に製糸から撤退。現在は、不動産、小売り事業などを手掛ける。

●お富ちゃん
富岡を元気にし、魅力をPRするため、2012年に誕生。富岡の富、生活を豊かにする富から命名された。工女をイメージしている。

『富岡製糸場』

【アクセス】
上信電鉄「上州富岡」下車。南へ徒歩15分。

【住所】
富岡市富岡1-1

【周辺マップ】

 

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◆上州をゆく◆第102話

「「お西お東」は名主さまの代名詞 ○五料の茶屋本陣 【安中市】

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 「お西お東」と親しまれている五料の茶屋本陣は、2軒の名主の邸宅であった。江戸時代、中山道を行く公家や大名一行の昼食や休憩の場、他の大行列が関所にかかっている間の待機場所として利用されていた。さらに明治天皇北陸東海御巡幸の際にも使われるなど、非常に重要な任務を担っていた。

 

 お西お東とは、どちらも中島姓なので、区別するため位置関係から用いられた通称である。両家は、天文年間(1540年頃)、諏訪但馬守が松井田西城に館を構えたときの家臣中島伊豆直賢(なおかた)が祖と伝えられる。両家は、交代で五料村の名主を務めた。

 

妙義山を借景にしたお西の庭園
▲妙義山を借景にしたお西の庭園

 

 1806年の火災で焼失したが、間もなく再建された。ほぼ同じ大きさ、構造である。お西にある白砂を敷き詰めた日本庭園は、妙義山を借景にした中々趣のある庭園である。縁側に座ると小春日和の陽光が気持ちよく、心のとげの様なものが取れ、穏やかな気持ちになった。

 

 今は両方とも史料館になっており、昔の生活用品、馬具や貴重な文書などが展示されている。高札に興味を持った。慶応3年3月、明治維新の前年の文書は、「王政ご一新につき、朝廷の條理を追い、外国ご交際の儀おおせいだされ・・・」で始まる。外国人への無礼、殺害を厳しく罰するというお触れである。その一方で、キリスト教禁止の高札も。複雑な時代状況が読み取れる。

 

分家お東も交代で名主を務めた
▲分家お東も交代で名主を務めた

 

 初代県令(知事)楫取素彦の書もある。君主を諌め、15年の間左遷された高崎藩士菅谷帰雲(すがや・きうん)の詠んだ漢詩をしたためたものである。

 

 清世蠲苛政
 不須察異言 
 誰何人去尽(抜粋)

 

 太平の世は時に苛政にいさぎよいものだ。苛政を行ってはならない。
 為政者として都合の悪い意見にも耳を傾けるべきだ。でなければ誰も心が離れてしまう。

 

 名県令として県民に慕われ、群馬県発展の礎を築いた楫取も感銘したに違いない。

 


-メモ-

●お西お東
お西に伝わる1601年の「五料村御縄打水帳」によると、この頃すでに土着し名主を務めていた。お西が本家で、お東は分家。1836年~1872年に、一年交代で名主を務めた。

●名主
律令制が衰退すると、口分田の私有化や開発などを契機に、土地が特定の個人に集約されるようになった(名田)。名田の所有者を名主(みょうしゅ)。所従・下人に耕作させ領主に納税の義務を負った。江戸時代になると、名主(なぬし)と呼ばれ村役人の一種。

●高札
古代から明治初期にかけて、法令を板面に記して往来の多い場所に掲げ、周知させた方法。

●菅谷帰雲
藩主松平右京亮の揮毫が藩主に相応しくないと諌めたところ、怒りに触れ15年の間、武蔵野野火止に左遷された。

『五料の茶屋本陣』

【アクセス】
JR信越線「西松井田」下車。西へ徒歩30分。

【住所】
安中市松井田町五料564-1

【周辺マップ】

 

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◆上州をゆく◆第101話「「人間解放」に挑んだ高崎の人々

              ○進雄神社、五万石義人堂記【高崎市】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 明治維新によって、日本は近代国家としての夜明けを迎えたはずであった。しかしその光が地方に届くまでには、まだ暫くの時が必要であった。中央政府は変わっても、封建的な支配体制は残り、この国を覆っていたのである。

 

 高崎藩城付5万石50村の領民も、いまだ重税に苦しめられていた。明治2(1869)年、長雨により、高崎は大凶作に見舞われた。困窮極まった領民は、遂に減税要求を決断。約4400人の領民が天王の森に集まり、決起したのであった。大総代に、佐藤三喜造、高井喜三郎、小島文治郎を選出。3氏を先頭に、村の旗を掲げ高崎城へと行進。嘆願書を藩主に提出した。

 

高崎の人々が決起した天王の森
▲高崎の人々が決起した天王の森

 

 藩主大河内輝声(てるな)は、大豆と馬の飼料の減免などを認めたのみ。これに憤慨した領民は、岩鼻県に訴え、嘆願書を出した。しかし納得する回答は得られず、領民の抵抗は続いた。それに激怒した高崎藩は、大総代佐藤、高井の両氏を斬首、なおも抵抗が収まらないと見るや、小島氏も処刑、数十人を流罪、投獄した。

 

 農民が決起した天王の森は、今の進雄(すさのお)神社。ここに減税を勝ち取ろうと、高崎一円の人々が参集した。維新のうねりが、人々を覚醒させたのである。「お上」には無抵抗で、されるがままだった人々の心の中に、抵抗の炎が燃え上がった。自らが立たねば、弾圧を払いのけることは出来ないと目覚めたのである。勇気ある先覚者の歴史が、このとき確かに刻まれた。

 

人々の勇気を記した「義人堂記」
▲人々の勇気を記した「義人堂記」

 

 抵抗を続ける高崎の人々に対し、明治政府は地租改正を約束。ひとまず運動は収束した。1871年、廃藩置県断行。封建時代そのままに人々を支配していた高崎藩は、ついに消えた。高崎市江木町にある五万石義人堂記は、農民解放のため尊い犠牲を払った先人の遺徳を顕彰し、後世にその精神を伝えるものである。いつの時代でも、歴史の門を開け、歴史を形作ってきたのは、名も無き庶民の力なのである。

 

 


-メモ-

●岩鼻県
元の徳川領を管轄するため、廃藩置県に先駆けて置かれた。上野、武蔵の幕府領、旗本領を治めた。廃藩置県により廃止された。

●進雄神社
古来、牛頭(ごず)天王宮と称していたが、明治維新の際に現在の名称に改称。平安時代、清和天皇の勅諚により建立。武田、上杉、北条、高崎藩主など武家の信仰を集めた。

●地租改正
農民の土地の所有権を認め、地税は地価の一律3%と定めた。しかし小作農の負担は重いままで、地租改正反対一揆が各地で起こった。

●廃藩置県
維新後も、藩主は知藩事として、そのまま領地を支配していた。政府は、中央集権体制構築のため、1871年、全ての知藩事を解任し、全国に府知事、県令を派遣し、政府直接の支配下に置いた。

『進雄神社』

【アクセス】
JR「高崎」駅から東へ徒歩40分。


【住所】
高崎市柴崎町801

【周辺マップ】

 


『五万石義人堂記』

【アクセス】
JR「高崎」駅から東へ徒歩20分。


【住所】
高崎市江木町208

【周辺マップ】

 

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◆上州をゆく◆第100話「御巣鷹山の麓の「村長さん」

              ○旧黒沢家住宅 【上野村】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 上野村にある旧黒沢家住宅は、この地で大総代を務めた黒沢家の住居であった。上野村、神流町と旧三原村(旧鬼石町)の一部は江戸幕府の天領で、山中領として代官が治めていた。山中領は、上山郷、中山郷、下山郷に分かれ、黒沢家は、上山郷の代表者であった。旧住宅は、座敷、玄関など当時の有力者の居宅の特徴をよく表す貴重な住居として、1970年、国の重要文化財に指定された。

 

 ここは鷹の生息地であり、毎年将軍家に鷹狩に用いる「巣鷹」を献上していた。黒沢家は、営巣地の御林守(管理者)の役目を負っていた。幕府は営巣地のある27の山を「御巣鷹山」と指定し、それぞれに名前を付けた。1985年に、日航ジャンボ機が墜落した山は、「長岩御巣鷹山」という。

 

当時の様式を残す貴重な遺産・旧黒沢家
▲当時の様式を残す貴重な遺産・旧黒沢家

 

 旧住宅は、江戸時代中頃の建築とされる。玄関が幕府の役人を迎える「式台」、村役人の出入りする「村玄関」、普段使う「大戸口」と三つもある。「上段の間」「中段の間」など代官が訪問した時使う部屋、31畳半もある「ちゃのま」の周囲に、「主人部屋」「女部屋」「ひろしき」(使用人用)も見られる。

 

 2階は蚕室で仕切りが無く、広い空間が広がっている。火鉢を何カ所にも置いて、部屋を暖めたそうだ。1階には、村人の争いごとに対処するための「おしらす」まである。有力者として集落をまとめ、村の安寧のため汗を流していたのであろう。「村長さん」は人望第一、威張ってばかりでは務まらない。中々骨の折れる役回りなのである。

 

水に強いクリの木を使い石を載せた屋根
▲水に強いクリの木を使い石を載せた屋根

 

 江戸の将軍は、よく鷹狩に昂じていた。特に3代将軍家光と8代吉宗は、江戸やその近郊に広大な鷹場を設け、鷹匠役所を置いていた。今はビルに囲まれている東京・浜離宮も鷹場であった。御巣鷹山の鷹も多数放たれたであろう。当時、鷹は朝廷からの預かりものという位置づけで、将軍でも「御鷹」と呼ぶほどの貴重品であった。それを預かるのだから、大総代とは気苦労の多い役目であったに違いない。

 

 


-メモ-

●大総代
十カ所余りの村の庄屋、名主を支配し、行政の責任を担った。大庄屋。旧黒沢家住宅は、18世紀中頃の建築とみられる。

●天領
江戸幕府の直轄領。当時は、支配所(処)、または御料所(処)と呼ばれた。天領という言葉は、幕府の直轄地が天皇のものとなった明治時代に生まれた。

●代官
主君、領主に代わって、任地の統治事務を司る者。上山郷は、岩鼻(高崎)にいた代官が担当していた。

●巣鷹
雛の内に巣から降ろした鷹。


『旧黒沢家住宅』

【アクセス】
JR「新町」駅から日本中央バス。 「学園入口」下車すぐ。


【住所】
上野村楢原200-9

 

【周辺マップ】

 

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